"世界一熱い男(立証済み)"の熱ブログ

世界を幸せにする為ウクレレを持ち 30ヵ国以上に愛を届け済み😊🎸 詳しくはこちらまで   Google検索 【世界一熱い男】 Instagram🌍 【 yuheiokami 】

幸せになるってどういうことだっけ。と考えてみる。

 

yellow Volkswagen van on road

 幸せになるってどういうことだっけ。と考えてみる。

 

2010年代という爆速でこの世の中のテクノロジーが進化した
10年間が終わってしまい、2020年代が始まった。
僕自身でいうと、高校生だった岡見少年は気づけば25歳になった。

 

皆さんはこの10年どのようなことがあっただろうか。

 

これまでの幸せと挫折をざっくり振り返り
少し遅れながら2020年への希望として、自分自身にエールを送りたい。
※前半/中盤/後半に分けて振り返ることとする。

 

ちなみに題名を期待していただいた方には
申し訳ないが、基本的には自分の振り返りなのでご注意を。
※かなり長いので、お手隙の際に。

 

◆2010年代前半

いわゆる高校生から大学生活がスタートするという時期であろう。

高校時代は野球がちょっとだけできたので
いわゆる野球枠で学校に入ったものの、怪我などもあり1年生で辞めている。

そこからというもの、特に学校生活をエンジョイするということでもなく
ひたすら同級生の端くれどもと言われてもおかしくない仲間たちと
自分たちなりの楽しみを見つけて、毎日を過ごしていた。
※今でもこの繋がりは濃く、年末も全員で集まり飲んだくれていた。

 

他の一般の学生とは違うところと言えば、
鬼のバイトマスターだったということだろうか。

今や常に行列が絶えないラーメン屋である「一蘭」に
会社史上初めての高校生としてアルバイトを開始して
最速で「店舗管理責任者」まで上り詰めた。

 

大変恥ずかしいことに、
勉強が常に学年で下から数えて3番目以内でしたので
何かが証明できている気がした。

 

そして高校最後の年に今の彼女に出会い、交際がスタートしている。
※もう9年目になるという潤な恋愛をしております。

当時、高校生活の後の将来に関しては
大学に行くなんて思っていなかった。


ただ、大学に進学できることになったのだ。
父親が大学は進んでおけと助言してくれ、
AO試験というものを使い、夢を盛大に語った。

その結果、見事大学へ進学成功。


こども保育心理学を専攻しており、
卒業と同時に幼稚園教諭/小学校教諭が取得できるコースで
7~8割は女性という構成比になっている。

おっ。ハーレムじゃん。と思ったそこの君。
その考えは惜しいね。

キャピキャピの女子大生の中に
一人180cmを超えた大男がいることを想像してみなさい。

もちろん、サークルなんてものは入ったことないよ。

 

ちょっとちなませて頂くと、大学入学してすぐに
アメリカへ1ヶ月間短期留学に行った。


I want to~すら知らなくて、カリフォルニアって国名じゃないんだって
初めて知ったのがその時期だった。

 

ただそこで出会った、太郎さんという僕の3~4個上のお兄さんに
面倒をみてもらい、いろんなことを教わった。

「ゆーへーあの人に話しかけてきてみな、
 取り合えず Hi Im Yuhei. I want to know your Facebookって言ってきて」

という一見、無茶ぶりに見える指示をひたすらこなしていたw


ただ今思うと、そのチャレンジが今の自分を作っている。
1ヶ月の間で、どんでもない数のFB友達が増えて
世界中の人との距離が近くなったのであった。


日本に帰ってからは自分のSNSの投稿が訳もわからない
英語のみで埋めつくされていたのは黒歴史でしかない。

 

大学入学と同時に始めたAmerican Eagleのアパレルの
バイトも大きく自分を変えてくれた。

当時日本に上陸したばかりの同社は、
私の地元、川崎にもOPENしたのであった。

初めてのお買い物の日に、
ハイタッチやら、ハグやら、衝撃的な接客をされた
岡見は、ディズニーランドを超える感動体験をしてしまったのだ。

思わず、その場所で働きたくなった。
そして働かせてもらい、そこからまさか4年以上働くとは思わなかった。

当時の店長のようになりたいと今でも強く思っている。
今もなお、僕の中のスーパーヒーローです。

 

思い立った行動から、気づけば素敵な出逢いや
今を作る大切な思い出に変わっている。

 

この2010年代の前半部分に経験したことは
非常に大きかったな。と文字量からも容易に読み取れるだろう。

 

 

 

◆2010年代中盤

 

さて前半部分の分量でも読んでいて重たかっただろう。
ここかから冒頭に話していたようにさらっと行くぞ。

 

抑えておくべき事象は3点
|  ①自分でビジネスを始める
|  ②世界一周の旅に出る
|  ③「死」について考えるようになる

 

要点をまとめて分かりやすく伝えることの重要性を
理解して置きながら前半では大変長くなったので
文章を書きながら学べている。とポジティブに捉えます。

 

中盤の動きを語ります。

 

①自分でビジネスを始める

そうです。自分で始めたのです。

保育/教育しか知らない僕がなぜこうなったかというと
大学一年生で経験した不動産の3DAYSインターンでビジネスの面白さを知った。
ということが非常に大きく、尚且つインターネットに無限の可能性を感じた。

アメリカ留学に行き、いろんなことに感化されていた当時は
居てもたってもいられず、当時海外で流行っていたInstagramというSNSを使い
ファッションメディアを作ったのであった。

マネタイズ方法は以下の2点
・インフルエンサーとしての商品PR
・ECサイトを作成して、ハンドメイド商品の代理販売事業


時代の流れもあり、グイグイフォロワー数が増えていき、
1万人以上にも及ぶ影響力を持ってしまったのだ。

 

ただ、つまらなかった。

今思うと羨ましいばかりなのだが
黙っていてもお金が入ってきて、僕の介入価値が感じられなかった。

 

②世界一周の旅に出る

1年間の休学を決意して、世界中を旅することを決意したのだ。
理由は結構単純で、世界中に友達が欲しかった。

ISISなどのテロが世界中で頻繁に起きている時期で
アメリカ生活中に出逢った友人の母国で次々と人が亡くなっていた。


世界中に友達が欲しいという欲求は
アメリカ生活で満たせており、今度は世界中を笑顔にしたいと思うようになった。


当時内戦があったトルコを初め、
ウクレレ一本でアフリカや、各国のスラム街などにも行くようになったのは
ここからだった。

 

当たり前のように、人が亡くなるという状況を目の前にした時
私はとてつもない衝撃と世界の大きさを知った。

自分は幸せな環境で、幸せな人生を歩んでいるなあ。と強く実感した。

 

③「死」について考えるようになる

今までの中で最も泣いたのはこの日だと思う。 
それは僕が旅をしている間に入った両親からの訃報で
私のおじいちゃんが亡くなったという連絡であった。

家族は、私に旅を続けて欲しいという思いがあったようだったが
真っ先に日本に帰国した。

訃報があってから日本に着くまで、
これでもか!ってぐらい泣いていて、人はいつ亡くなるかわからないと
尋常でないほど痛感した。


上記の3点の大きな経験から、
いつ死んでも後悔のない人生を送り、
目の前の人がいつ死ぬかわからない。と感じるようになってから
人に対して熱苦しいほど、本気で接するようになった。

 

気づけばそういった経験から、「世界一熱い男」と呼ばれ
ラジオやメディアへの出演などをするようになった。

 

2010年代中盤での出来事は、
この先の人生においても大切なことを学んだ。

 

ただ、この「世界一熱い男」と呼ばれることがプレッシャーになることも
この後ある事は知るよしもなかった。

 

 

◆2010年代後半

2018年、私はCyberAgentで働いていた。
誰もが羨むような、有名企業に入社をしたのであった。

成績は最下位、大学は一般就職する人が居ない。

 

何が起きたのだ。岡見悠平。と自分でも驚いている。

 

旅しまくった私は、よくも悪くも何でもできる気で居た。
世界を幸せにするにであれば、教壇に立つことではなく
より多くの人に価値を届けられる、インターネットに魅せられていた。

 

帰国してすぐに就職活動支援している会社にたまたま
出逢え、そこで働く社員の皆様にたくさんのことを教えてもらい
今でもアニキのように慕う、社員さんに出逢い入社させていただけることになった。

 

学生時代に、お世話になった人材企業での営業経験や
自分でビジネスをしていたという経験から、何でもいけるだろう。

そう思っていたが、簡単にはいかない。

 

 何にもできなかった。
世界一熱い男という名前が絶妙に知名度があったのと
声も体も大きいことから期待を一身に受けていた。

・数字は2桁は間違える。
・これだけはミスるな。というものをひたすらミスする。
・これでもか!というほどの誤字脱字


ただそんな僕を、同じ部署の先輩方が0から教えてくれて
自分の能力を最大限発揮できる環境を作ってくれて、
何とか居場所を用意してくれていたおかげで
表彰される機会を何度かいただいた。

 

諦めないで、期待し続けてくれた
周りの方々がいたから、僕はスタートラインに立てていた。

営業時代に出逢ったお客様方にも
同じ社内の部下かのように可愛がっていただいた。

 

まさに毎日が幸せであったのだが
そんな中で2年目を迎えるタイミングで
一人っ子の私がずっと一緒だった愛犬が亡くなった。

 

どこかそのタイミングで、本来自分がやりたかった
「世界を幸せにする」ということを忘れていたような気がして
居てもたっても居られなくなった。

 

本当にアホすぎるし、特に決まってもいないにも関わらず
もう一度、世界に飛び出るということにした。

 

社内は私のことを思い、大反対してくれたのだが
それと同時に、大応援してくれていた。
※今でも当時の部署の方々とは交流があり、
  2020年の新年会も私の自宅でおこなった。

 

僕は出生率が高く、インターネットの普及率も高い
アジアをいくつか周り、教育事業をやろうと思った。

結果的に上記のような道には進まず、
Überやgrabのように現地で誰でも働けて、
給与として地元の人たちに還元できるような企業の存在を知った。

こどもたちを学校に行かせて、
家族を養えるようになっている現実を目の当たりにした。

 

私はもう一回、ビジネスをしたいと強く思うようになった。
ただできる事はまだまだ少なく、目の前のことに本気になることしかできない。

 

最後の最後にあっさりと、序盤に比べて雑な記載になったが
それだけ思いが強いということにしておこう。

 

ただこの数ヶ月で思いだけではどうでもならないことを知った。
思いだけではなく、結局は行動をしており、結果が全てだということ。

 

幸せになるってどういうことだっけ。と考えてみる。

 

改めて幸せになるってどういうことだっけ。と考えてみる。

こちらの記事の冒頭にテクノロジーの進化・・・と記載をしている。

 

僕はこのテクノロジーの進化が人を豊かにしている反面で
人の幸せの価値観をわからなくしているとも感じる。

 

SNSで誰しも情報共有が容易にできるこの時代に
自分が発信する発言やアウトプットに「いいね」や
その人がどのくらい興味を持たれているのか「フォロワー数」など
定量的に自分と誰かを比べやすくなっていると感じる。

 

もちろん選択肢が増えて、個人で輝ける時代がきており
そこに対してのワクワクを感じる。

 

ただ、自分のやりたいことが誰かとの比較や
今の現状を苦しめる、外部刺激であることも間違いない。

 

幸せになるという事はどういう事なのか。
こちらを再定義するにはまだまだ時間を要するが
自分自身で納得した人生を選択できるという事象が重要なのではないか。

 

2010年を振り返ると、最高と呼べる時間には必ずといっていいほど
「夢中」になっている瞬間と重なっている。

 

自分自身が夢中になれるものは何か。
主語は「 I (アイ) 」であり、他の誰かでもない。

 

この2020年代における10年間に私はどのようなチャレンジをして
どのような経験を得られるのか。

 

そんな事は、2010年の私が10年間を予想できなかったように誰にもわからない。

 

毎日毎日の幸せの繋がりが線になり
振り返ってみると、こうやって良き思い出になるのでは。

 

今年も、全力で突き進むぞ。
そんな気持ちでいっぱいです。